人間にとって旅とは何か~動物と人間の比較研究~

旅とは何か―。大学の担当科目「観光文化入門Ⅱ」では、観光産業の最前線で活躍している実務家をゲストスピーカーとして参画してもらっています。15回のすべての授業で「あなたにとって旅とは何か」をゲストスピーカーに訊ねました。


「出会い」「未知の発見」「五感で感じ取るもの」「私自身を取り戻すこと」「人生の深呼吸」「自分の軸をつくる体験」「価値観をつくる栄養素」「出会いと学びと幸せ」「生き方を変えるエンターテイメント」「物理的に精神的に境界線を越えること」など様々な表現で答えて頂きました。旅とは、人によって様々な価値をもっていて、単純に楽しみや娯楽としてひとくくりにできないことだけは確かなようです。


観光学は、観光に従事する人を育成する役割だと考えられがちですが、私はそれだけではないと考えています。観光をする人を育成する役割も担っていると考えています。「旅とは何か」を考えて旅をする人はほとんどいません。第一、そんなことを考えたら楽しめないでしょう。しかし、観光を学ぶとは、自らの旅を客観化する必要があります。「旅とは何か」を考え、言語化して、旅の輪郭を浮かび上がらせることは、旅の持つ潜在力を可視化することにつながります。つまり、旅の再定義です。コロナ禍で不要不急になったこそ、意義ある問いだと思います。


では「旅とは何か」という問いを私なりの視点で考えてみたいと思います。ただし、私の陳腐な脳みそでは、この壮大な問いには答えきれないので、2つの文献を頼りに考えていきたいと思います。このような本質的な問いは、人間の旅を相対化する視点、つまり動物と人間の旅の違いから考えるのが近道です。参考にしたのは榎本知郎『なぜヒトは旅をするのか: 人類だけにそなわった冒険心』高井薫『観光の構造』です。


動物と人間の旅比較①~未知への旅と許容能力~

榎本知郎は、ニホンザルやボノボなどの霊長類学者です。この著書では、他の動物の移動との比較から人間の旅の特徴として2つを述べています。第1に人間の旅は、生活(捕食・生殖)圏を超えて未知へ移動することです。動物の移動は、距離が長くても、広範囲であったとしてそれは生活圏の範囲内である一方で、人間は生活圏を超えた場所へ移動するということです。20万年前にアフリカで誕生した人類が遊動を重ねながら世界へ拡散していった(グレートジャーニー)は、未知への探求がさせたのでしょう。


第2は、人間の旅は、敵でもない味方でもない中立的な立場で旅をすることです。一般的に動物は群れを成して生活をしています。一旦、群れを離れることはそれは外敵になることを意味します。従って、一度群れを離れた個体が別の群れに遭遇したり、再び戻ろうとすると外的とみなされ威嚇されます。ところが人間の旅は、日常の生活圏から一時的に離れて他の集団の生活圏を訪れても外的とみなされ威嚇されることはありません。ましてや日常であった生活圏へ再び帰ってきた時に威嚇されたり、排除されることはありません。敵でも味方でもない中立的な立場で旅をすることができる前提理由を、著書では人間には「許容」と「言語」があるからであると述べています。もっとわかりやすく解釈するとすれば、それは見知らぬ他者を理解しようとする「同感力」と意思疎通を図る「言葉」と言っても良いかもしれません。交易という価値交換も感情に訴えない理性的な意思疎通であり、個体間の関係性における他の動物にはない人間の特徴です。


これは、現生人類がホモ・サピエンスだけの同一の種であることも大きいのでしょう。他の動物に比べて身体的には弱いはずの人類が、地球上で大きな勢力を占める種となっているのは、人類が巨大な社会集団を形成できる能力があるからです。企業、国家など社会集団を形成する力とは、ある幻想を描きそれを信じる力であるとしたのは、世界的ベストセラーとなったユヴァル・ノア・ハラリ『サピエンス全史』です。同じ種として入れ子構造の中で社会が形成されたことで、中立的な存在を許容するということが自然発生的に生じたということも考えられます。「人類、皆兄弟」とはあながち間違っていないのです。


古代から中世までの旅は、交通機関はなく自らの足による徒歩であり、泊まる場所は沿道住民の家か野宿が基本です。道路も未整備でしたから、苦難の旅でした。さらに法顕、玄奘、ヘロドトスなど歴代の旅人は、無償の旅です。しかし、無償と言っても単純に利他の精神だけで旅人を受け入れたわけではありません。巡礼者を泊めることは宗教的ご利益があると思われていた時代ですし、旅人の持つ世界の情報が希少価値のあるものであったと言えます。厳密に言えば、世界を見聞することで得た情報と宿食の価値交換をしてきたというのが正しい理解です。他の動物との違いから、人間の旅が未知への探求を伴い、また旅人は中立的な存在であることが重要な意味を持つのです。そして旅を可能とする前提に、人間が単に敵味方の分断した関係性ではなく、互いに許容と寛容で関係性を築く力があることが重要なのです。



動物と人間の旅比較②~旅と地動説的世界観~

次に高井薫『観光の構造』から、人間の旅を読み解いていきます。哲学者の高井は、動物と人間の旅の比較を下記のように述べています。


「人間の観光が動物の旅と異なるのは、人間が日常生活の限界を自覚しつつ観光世界に超え出ることによって、観光することを人間の生活そのものを豊かにすることにつなげている。動物たちはどこまで旅をしても一つの世界しか持たないのに対して、人間は少なくとも二つの世界を持ち、しかも二つの世界を絶えずかれ自身の生活のうちで統一しつつあるのである。」


人間は旅をすると、好む好まざるに関わらずその土地の慣習や社会規範に従わなければなりません。日本の常識は世界の非常識。その逆もしかりです。そのことによって、その土地のものの観方や考え方を知ることになります。つまり、旅をすることは、同じ人間の中であっても頭の中に複数の世界観をもつことになるということです。この内面における複合世界を私は「地動説的世界観」と呼んでいます。自己を中心とした天動説的世界観から、自己を相対化する地動説的世界観へと思考を変換させる力が旅にはあると言えるです。

「日常生活の世界から観光世界へ超え出るということは、日常世界の何らかの限界を突破し、その制約から解放されるということである。その制約が多少でも人間であることを歪めていたとすれば、観光世界へ超え出るということは人間性の回復であるといえよう。」


定住社会を前提にした現代の私たちとって、何らかの集団から出ていくことをしばしば「逃避」という表現をします。しかし、遊動社会では、何らかの集団から出ていくことは「逃避」ではなく「冒険」や「挑戦」であったはずです。人類20万年の歴史の中で定住していたのは1万年に過ぎぎず、遊動社会の方が圧倒的に長いと言われています。そのように前提を疑うことで、旅の新たな側面が浮かび上がってきます。旅には「逃避」と「冒険」の表裏一体となった二面性があるのです。会社、組織、国家など自ら創り出した幻想の中で人間は生きています。旅をする時に得られる一種の解放感は、自らの日常が幻想によって縛られていたことを自覚することによって起こるのです。



人間の旅の本質から学ぶこと

では、こうした旅の本質に対する議論から、私たちは何を学ぶことができるでしょうか。


まず1つは、旅をすることで、人間の内面に複数の世界をもつことは他者への共感や寛容を生む可能性があるということです。『永遠平和のために』を著した哲学者のカントは、世界平和の条件のひとつに「誰もが自由に訪れる権利=訪問権」という概念を述べています。すなわち、旅をすること(但し、それを訪問される側が歓待するかどうかは別問題)は平和を維持するための条件のひとつであるとしています。一方で、人々が犯罪を犯したときに拘留されるのは、移動の自由を制限することが重い処罰であると認識しているからです。そうした文脈で旅を再考すると、旅が人間にとって本来的な欲求から起こる営為であり、またそれは人間の異文化理解や多様性に対する寛容を醸成していくものだとするのは自然の流れです。時にそれが人間の利他的な行動を促すこともあるのではないでしょうか。


しかし、旅をすれば必ず他者への共感や寛容をもたらすわけではありません。それができるためには自己中心的な旅ではなく、地動説的な見方になる深い洞察や地域の人びととの交流が不可欠です。「インスタ映え」を確認する旅、リゾートの疑似空間だけで完結する旅には、地動説的世界観を醸成することはできないでしょう。その意味では、旅の仕方が重要ということになります。


観光者が観る対象は「優れた光(非日常)」であり「なにげない影(日常)」ではありません。観光事業者によってしつらえ、つくられた光(非日常)の裏側には、影(住民にとっての日常)があることを観光を学ぶ者は自覚せねばなりません。その意味では、単に光を求めて楽しむのは観光客ですし、単に光をつくりだすのは観光業ですが、光も影も見るのが観光を学ぶ者であると言えます。観光は万能ではありません。その限界を知りつつ、その制約の中で価値を最大化するリテラシーが、ポストコロナにおいて観光を学ぶ者にとって求められる能力となるのです。


(以上)

鮫島卓研究室 SAMETAKU-LAB

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